そんなわけでした。

老人ひとり暮らし。ちょっとしゃべってみるかね。

こころとからだの関係

こころとからだの関係でいうと、

からだのほうがえらいんですよね。

そんなこと、思ったですよ。

 

だから、からだに背いていると、

こころはどこかで落ち着かない。

どこかで閉じている。

 

たばこを吸っていて、

やめたほうがいいなぁと感じながら吸っていると、

人生がやさぐれてくる(笑)

いや、ほんとにね。

 

そういう考えなくてもいいことを考えたのは、

フッ素樹脂加工のフライパンが発端です。

土井先生が徹底してフッ素樹脂加工のフライパンを使うので、

まぁいっか、と使ってみたら革命的だったんです。

ほんとに調理が気楽になった。

これでいいじゃんと思った。

しかし、どこかでは満足していなかったのでしょう。

耳をふさいで目をつぶっていたのでしょう。

 

からだの周波数を見てくれるところがあって、

それによると、わたしはフッ素の影響を受けるという。

まぁ、ちょっとくらいはいいよねという話でその場は終わった。

細胞がフッ素はいやですといっているのにね。

 

テフロンのフライパンで料理が楽しくなって大満足。

テフロンのフライパンでからだに後ろめたくて五感が鈍る。

そのバランスでしたね。

 

あるきっかけで、フッ素樹脂の調理器具をやめる気になった。

するとどうでしょう。

こころが爆発するくらい喜んだのです。

思いがけないくらい、胸躍るんですわ。

そんなにうれしいか? と驚いた(笑)

 

こころは我慢していたんだね。

この日が来るのを待ち望んでいたんだね。

こころは、からだにいいことすると、うれしい。

からだはこころの大先輩ですから。

大先輩は、こころを待っていてくれた。

よかったね。

 

 

テフロンをやめて、鉄のフライパンに戻したの。。。

それだけの話です。

本題は、鉄分の話なんですけどね(笑)

 

 

鉄瓶を注文して、わっくわく。

 

 

 

子宮癌

少し書いてみる。

 

不正出血が止まらず、いやいや婦人科へいったら子宮癌の疑いあり。

しかし、その検査があまりに手荒く、ほんとうに驚いちゃった。

野戦病院みたいだった。

心身ともに疲弊し、精密検査を受ける気が失せて、放ったらかした。

 

そして延々と不正出血は続き、一年後に別の婦人科へ行った。

診察室へ入ったら、あまりに穏やかで平和で、おじいちゃん先生は「痛くしませんから」と言う。

その言葉にすっかり安心して、実際に検査も痛くなかった。

結果は子宮体癌で、「相当分厚いね」とおっしゃる。

最初に行ったときはかたまりが画像の一部だったが、

今度の画像は子宮いっぱいではみださんばかりに大きくなっていた。

 

子宮全摘しかないという。

子宮をとるのはいいとして、魔法のように取り出せるわけではない。

お腹を切り開く、というのがなんだか不自然でイヤなのだ。

しかし、やさしい先生が穏やかに「手術したほうがいいですよ」という。

その気になった。

この先生にいわれたら、その気になった。

 

そして、紹介された総合病院へ行った。

若い先生だ。

看護師に「先生の前ではマスクをしてくださいね」と軽く叱られた。

CTスキャンMRIの予約をとって、

その後ステージやら、手術の日程などを決めることになった。

市役所みたいな病院で、患者は組立工場の部品みたいに見える。

まぁ総合病院というのはそんなものだろう。

でも、採血する若い女性はおもしろかったね。

「そんなに血をとって大丈夫ですか?」といったら、

「大丈夫。大さじ1くらい」と答えて笑った。

プロテインの話でも軽く盛り上がり、楽しかった。

 

検査の日がくるまで、気持ちが暗い。

どうやって、感情と折り合うか、もんもんとする。

睡眠薬をまた飲み始める。

息をひそめて自分を折りたたんで、折りたたんでいる感じ。

ある夜、癌についての相談を読んでいて、

「感謝していますか?」という辛口のアドバイスがあった。

「世界には手術を受けたくても受けられない人がいる。清潔な環境で、手厚く看護されながら手術を受けるられることに、感謝の気持ちはありますか?」

それを読んで、ふいに殴られたような驚き。

自分のことだけでいっぱいだったなぁ。

感謝の気持ちがみじんもなかったことに気づいた。

 

ありがたいとしみじみ思った。

ありがたいと思えたことは、自分を救った。

これが第一転換点。

 

CTスキャンを受けた。

ぜんそくがあるので、造影剤は飲まずに済んだ。

従順に並び、名前を呼ばれて座ったり、着替えたり、、

粛々とベルトコンベアーに乗っている。

 

次の予定はMRIだ。

その日が近づいたある夜、わたしは我に帰る。

それは本当に気を失って、意識が戻ったような感じ。

なんのために手術するの?

あたりまえみたいに、手術へのスケジュールを進んでいる。

他に道がないように、進んでいる。

なんのため?

死にたくないから?

苦しみたくないから?

 

わたしは年が明けたら70歳だ。

そして、今までの人生で一番穏やかでしあわせな日々を過ごしている。

もう十分なのだ。

ごちそうさまでいい。

そんな折に、この衰えたお腹を切り開くのか。

そんなことをするのか。

ありえないと思った。

そんなことはしたくない。

はっきりとわかった。

死ぬのはOKなのだ。

手術の合併症や後遺症、その後の定期検診の日々が始まるのは、大きな違和感がある。

次の日に、検査も診察予約もすべてキャンセルした。

これが第二の転換点。

 

そうしたら、晴れた。

明快になったことがひとつある。

それは、手術へ感じていたわだかまりというものの正体だ。

病んだ子宮を切り離そうとするその意識。

病んだ子を捨てるような気持ちだったのだ。

手術しない決断をしたことで、感情が落ち着くだけではない。

子宮が安心した。

癌細胞への気持ち。

そこにいてもいいよ。

いっしょに生きていこうね。

子宮がくつろいでいる。

心底安心した。

からだ全体で、お祝いしたいほど安心した。

 

不正出血は相変わらずだ。

以前は、一生生理ってなんてわずらわしいと思ったけれど、

これでいいと思う。

からだが不要なものを捨てられる窓口があってよかった。

からだの中にたまっていくのは困る。

気持ち良い、少し上等なダブルガーゼで布ナプキンもたくさん作った。

 

お亡くなりになったけれど、近藤誠先生、中村仁一先生に感謝している。

命の恩人です。

 

癌になり、どんどん心が澄んできている。

先が短いかもしれない、ということは素晴らしい。

年寄りなので、先は短いのだけれど、

癌となればさらにはりきって、日々を満足に過ごせる。

 

大満足に生きようぜ!

 

 

 

 

 

 

 

キャベツの気持ち

このごろ、野菜を切るのがえらい楽しい。

前は無造作に切っていたけれど、

このごろ、野菜の気持ちを思うんです。

力任せではなく、さくっ、かろやか〜に切る。

気持ちよーく切る。

キャベツも喜ぶというもんです。

 

手の感覚、包丁の刃先の感覚、そして野菜の感覚。

一度に感じると、おもしろく楽しい。

手打ち麺をこねているときも、気持ちよくこねられる小麦粉を感じる。

出汁をとるときも、いい湯加減で本領を発揮してもらう。

ほとんどの動作は手を使うので、

手が触れているものと、触れられているものと、

両方を感じてみると、落ち着くんです。

 

これは、お茶のお点前に通ずるなぁ。

 

暮らしの所作がすべてこんなふうだと美しいなぁ。

 

 

音痴です。

ものすごーーく音痴で、

音程が狂うのが自分でもわかり、

つまり音程通りに歌えないのが音痴で、

そういう人は、カラオケがきらい。

人前で歌うなんて恥ずかしい。

歌がうまいひとが大変うらやましい。

おとなしいひとが、歌ったらすごく上手って、かっこいい。

 

しかし、音痴の人間は歌がきらいとは限らない。

わたしは歌いたいので歌う。

ウクレレを買って、ひとりで歌ってみている。

ウクレレも下手だし、歌もまずい。

隣近所に聞こえたら迷惑なので、静かに歌っている。

毎日だ。

今のところ3曲だ。

楽しい。

 

まあ上手に歌えたらもっと楽しいだろうけれど、欲張らない。

吊るされたウクレレが目に入るだけでも愉快。

 

誰だって歌が好きだ。

音痴のひとだってどんどん歌え!

 

 

 

大晦日2023

今年はからだの年でした。

コロナにもかかって、からだも弱りました。

癌かもしれない、ともいわれました。

つづく、つづくの最中での年越しです。

 

自然なことだなぁ・・・

はやり病にかかったり、

衰えて癌かもしれなかったり、

結局、それは事件ではなくて、自然なことだ。

 

死ぬことを身近に感じ、

いえ、このごろは身近なつもりで生きてはいたが、

癌かもしれないことで、ますます身近になり、

さっぱりした気分です。

 

たいした日常ではない。

瞑想もしない。

ドラマなんか見て、なにかを無駄遣いしている感じがなくもないが、

今の暮らしはホッとしていいなぁ。

お金がないだけだなぁ(笑)

 

あ~いよいよ終わりだね。

サンキュー

バイバーイ

と、いつでも逝けるよ。

 

たおやかなりけりお年越し(^^)

 

 

 

 

あらかじめ愛がある

娘がいて、

そいつは、なにも有意義的なことをしないやつで、

働かず、家事も手抜きで、

風呂もたまにしか入らず、

一日中ゲームをしている。

家から出ない。

およそ我慢とか、努力とかと無縁である。

 

その娘を、旦那はこの上なく大切にしてかわいがり、

おかんである我も、途方もないほど愛しく思っている。

その気持ちは、胸に押しとどめておくことができず、

宇宙の果てまで広がり続けていってしまうほどなのだ。

 

これってなんだろう。

愛ってなんだろう。

愛は、なんの努力もいらないところにあるんだろう。

存在しているだけでいいんだ。

 

娘が会いに来てくれたら、楽しい。

でも、会いに来てくれなくてもいい。

会いたい、ともそれほど思わない。

 

ただただ、娘のことを想うと、愛しさがあふれて呆然とする。

 

 

この人生で、愛されようとがんばったことがたくさんある。

でも、そんなことで愛されたりはしない。

愛は育てるものか?

いえ全然違う気がする。

育てるとしたら、それはもう少し別の何かだ。

その存在のすべてを愛したら、相手はどんな状態でもいい。

あらかじめ愛がある。

 

娘を想うとき、

わたしは、たぶん、自分もこのように、なにかから愛されているんだなあという気がする。

 

 

 

ささやかなことがしあわせだなぁ

雑談です。

 

大きなしあわせってなんだろう。

愛する人と結ばれるとか、

世間に認められてなにかの賞をもらうとか、

おもいがけないお金がたくさん入るとか、

貧しい発想ですが、そんなことかしら。

 

しあわせって、ちいさいほうがいい。

いえ、ちいさいことを表すことばじゃないかしら。

   ね(^^)

 

このごろのしあわせ。

使いにくかったキッチンマットを変えて、ふかふか。

キッチンに立つのがしあわせ。

セリアでかわいいスパイスボトルをたくさん買った。

ウォールシェルフをアイボリーにペイントして、ボトルを並べたらしあわせ。

圧力鍋でせっせと玄米を炊いていたけれど、頑固さを脱いだ。

小さな電気釜で手軽に胚芽米を炊くことにしたら、毎度炊き立てでしあわせ。

重い掃除機をひきずって使っていたけれど、コードレス掃除機に変えた。

あっという間に掃除できて、魔法のようでしあわせ。

家の中のことばっかりじゃないか。

そーなんです。

どーも、外よりうちが好きでね~

すぐ帰りたくなっちゃう。

 

まーしあわせって、衣食住ですね。

まーわたしのしあわせは金で買えることが多いですね。

まーこの世の不幸は、愛と金と健康ですかね。

 

愛に関しては、この人生でパートナーシップには失敗しました。

それに大半つぎこんできて、おなかいっぱいになっちゃった。

自分の愛のエゴっぷりに地獄をみました。

関わってくれたすべての男性に感謝しています。

今なら愛せますね。

その人の選択と自由を愛せます。

そして、そうなると、もうひとりでいいのでした。

 

金に関しては、とことん貧乏ですね。

貧乏なくせに、金遣いが荒いのでした。

ぎりぎり買えそうなものは、どんどん買う。

というか、欲しいものはさっさと買って欲望を終わらせるのです。

毎日小銭を数えて、今月は一日いくらとかやってますが、不満はない。

ケチるのも、無駄遣いも、両方好きですね。

女ですもの。

 

健康に関しては、ぜんそくだし、骨も弱いです。

68歳だからね。いろいろ無残な笑っちゃうようなからだです。

ホメオパシーで調整しながら、そっと暮らしてます。

人間のからだはいつか滅びるので、だんだん衰えるのは自然です。

自然だから、問題はありません。

 

 

自己紹介になっちゃいましたね。

恥ずかしい。